フレデリック・ワイズマン『アメリカン・バレエ・シアター』

アメリカン・バレエ・シアター(ABT)という団体を撮ったドキュメンタリー。
ドキュメンタリー映画では、作者の顔が比較的よく見えるもの(作者が映像として映っているかどうかと言う意味ではなく、作者の人となりが映画から伝わってくるかどうかということ)と見えないものがあるが、この映画はほとんど極端なまでに作者の顔が見えない。


通常のドキュメンタリーでは出演者のカメラ目線が入るものなのだが、
この映画ではただの一人もカメラの方を見る人はいない。
おそらく「カメラが無いかのように振舞ってくれ」と出演者には言っており、カメラ目線になってしまったカットは編集で切っているのだろう。


ナレーションもなく、インタビューはあるがその際も出演者はカメラを見ないので、それが映画制作者によるインタビューなのか雑誌の取材を受けているのかもわからない。
ワイズマンの他の作品を見たことがないが、このような顔の見えなさこそが彼の個性と言えるのかもしれない。


別の言い方をすれば、製作者側と撮影対象の間の交流が(もちろん無いわけはないのだが)画面から排除されているということでもある。
それによって観客も、ABTのダンサーやスタッフに感情移入する契機を失い、まるで野生動物の観察映像でも見るように、客観的に彼らを見つめることになるだろう。


そのような即物的な印象は、ダンサーたちの超絶的な肉体によってより強められている部分もある。
鍛え上げられた重厚さと軽やかな運動性が同居する彼らの肉体からは生命力がほとばしっているのを感じるのだが、
そのエロスは人間的な欲望に属するものと言うよりは、野生動物の力強さをより想起させる。


とは言え、ABTは『ロミオとジュリエット』や『春の祭典』のようなクラシックをやる団体なので、
純粋にフィジカルな運動を重視したモダン・バレエと比べると(って詳しくは知らないけれど)随分と感情的な演出をしている。
「もっと内面から感じて!それを体で表現するの!」みたいな。
そういう「人間的」な部分もワイズマンの客観的な視線で捉えられると、人間性を奪われて、なんだか「彼女は内面から感じる生物である」と言っている記録映像のようになってしまう(笑)


経理のおばちゃん(と言っても最高責任者の一人だと思われる)が電話口で「700万ドルよ!わかってんの!」と怒鳴り散らすバレエとは直接関係ないシーンが5分以上も続いたりするのだが、
そういう部分も全部ひっくるめて「バレエはいかにして作られるか」という観察映像(まるで「アリの巣の出来るまで」のような)として撮られている。
その客観性がダンサーの肉体の美しさを引き立てているのだ。


まったく関係ないけど。
以前から生でダンスを観たいと思っていたのだが、
今度、山崎広太の公演を観に行くことになった(バレエじゃなくて舞踏だが)
ちょっとドキドキ。


4月にはローザスも来日するけど、そっちはお値段もそれなり。
う〜ん…でも観てみたいな。