多数者の音楽

メタリカのリフ・スタイルを完成させたのは俺だ!」
とデイブ・ムスティンは豪語していたらしいですが
メガデスにはなくメタリカにしかないような音は存在します。
(注:デイブはメタリカをクビになったあとメガデスを結成した)
もちろん、メガデス的な音というのもあるわけです。

クラシックで言えば、作曲家の音と演奏家の音、
例えばバッハ的な音とグールド的な音の二種類があることになっていますが
なぜかこの区分がほとんどの音楽に当てはめられてしまい、
音楽の主体と言えばその二者に帰せられてしまう。
メタリカの場合は作曲者=演奏者ですね。

しかしバッハの曲とは言っても、
彼が用いていた和声法や対位法はバッハが自分で作ったものではないし、
彼が生きていたのは平均律が成立する過渡期で、
様々な調律法が平均律に収束していく過程で
その新しい調律法の最も豊かな可能性の中に居たわけで、
バッハの音楽に有名無名の調律師たちが与えた影響は計り知れないものです。
(バッハは自身も一流の調律師だったそうですけど)

やや強引な話なのを承知で言えば、
グールドが愛用していつも持ち歩いていた椅子を作った人が彼の演奏に与えた影響だって計り知れないし(笑)
彼が漱石を愛読していたことだってどこかしら彼の演奏に影響を与えている(と思う)
「グールドのバッハ」と言うとその二人の作品だと考えがちですが、
バロック期やそれ以前の作曲家達、調律師たち、椅子職人、日本の小説家…
などなど無数の人の力が寄り集まって出来ている作品なわけです。

よく知らないけど、柳宗悦民芸運動というのは
作品を、作者という少数の主体による独占から解放し、
多数の人の力が響きあう場として捉えようという運動だったと推測するのですが、
結局は「○○先生」という作者の位置に「無名の人」という別の作者が座ってしまうだけの結果に終わってしまったように思います。

突然また音楽の話に戻しますが、
ジャズが面白いのは作曲者の地位がとても低い点です。
エヴァンス・トリオの『枯葉』を聴いて作曲者のことを思い浮かべる人はあまりいません。
調べてみたらジョゼフ・コズマというフランスの作曲家で
ルノワールやカルネの映画の曲を書いてる人だそうで。不勉強ですねぇ。

…話が反れましたが、コズマがどれほどの作曲家なのかはこの際どうでもよくて、
エヴァンスの『枯葉』を聴きながら「コズマはいいなぁ」なんて誰も思わないって話です。
そこには、「この曲は誰のもの」という観念が打ち消され
多数の力学の豊かさの中に音楽を解放する契機が含まれているのですが
どうしても僕たちはそこに再び「エヴァンスの音」を聴き取ってしまう。

もちろん「ビル・エヴァンスの音」としか言いようのない音はあるわけですが、
その中には、スコット・ラファロの音、ポール・モチアンの音はもちろんのこと、
コズマの音、マイルスの音、録音技師の音、スタジオの設計者の音、昨日抱いた女の音、去年のライブの観客たち音…
などなどが含まれているはずで、その多数の人々の音が響き合い、せめぎ合う場こそが音楽の豊かさなのだと思うわけです。