ダニエル・シュミット『ラ・パロマ』

シュミットは、フィクションの映画はもちろんのこと、
その妙なドキュメンタリーに至るまで徹底して虚構を撮る人です。
『今宵かぎりは…』はあり得たかもしれない架空のパーティであり
『書かれた顔』はあり得たかもしれない架空の玉三郎であり、
この『ラ・パロマ』はあり得たかもしれない架空の愛についての映画です。

ここで言う架空の愛とはイジドールの愛ではなく
(彼の愛情は激しく深いですが、それは量的な問題であり、質的にはごく普通です)
ヴィオラの愛のことです。
ナレーションでも「彼女は愛していなかった」と言っている通り
それは愛と呼ばれるべきものですらないのかもしれない。

しかし、それがイジドールの深く誠実な愛に応える唯一の方法であり
そしてそれをイジドールが「彼女の愛」として受け止めているわけで
この二人の関係は紛れもなくあり得たかもしれない架空の愛なのだと思う。

そしてシュミットは、その恐るべき想像力によって完璧に作り上げられたこの虚構の愛を
大胆に、いとも簡単に壊してしまう。
僕はビデオも持っていたから4,5回は観ているのだけれど
ラウルが登場する度に、この美しい世界があんな軽薄な優男にあっさり叩き壊されてムカムカします(笑)

それは架空の愛だから脆いのではない。
元々他者との関係などというものは脆いものなのです。
それを信じるか信じないかがここでは掛けられていて
イジドールはそれを信じられなかったからこそそれを失ったのです。
しかし、その愛の崩壊を描くのが目的であればもっと短い映画になっていたはずで、
シュミットが描きたかったのはそこではない。

二人の幸福が崩壊していく過程を執拗に描いたのは、
実はそれが崩壊ではなく、彼らの抵抗だったからです。
ヴィオラは一度は失ったイジドールの無制限の愛を彼女なりのやり方で取り戻そうとし、
イジドールはそれに彼なりのやり方で応えた。
彼はヴィオラの遺体を切り刻むことで彼女の愛を取り戻したのです。
なんと美しいハッピーエンドでありましょうか。

繰り返しになりますが、シュミットの映画ではありもしない可能世界を
虚構と知りつつ強く信じることが賭けられています。
それはシュミットの映画に対するややアンビヴァレンツな愛であり、
彼の闘争(『今宵かぎりは…』のチョビ髭の言う「革命」)なのです。