あきらめたらそこで試合終了ですよ

先日も書いたのですが、
(死を除けば)人生にゲームセットはない。
クリスは死ぬまでマッチポイントに追い詰められたまま生きねばならないのですが、
それは精神的な意味でそうであるだけでなく、
例えば、殺人に使った義父の猟銃がいつ調べられるとも限らないわけで
クリスとノラの決着は彼が死ぬまでつくことはないわけです。

「恋の終わり」というものも、あると言えばあるわけですが、
それだってゲームのように明確に決着がつくわけではなくて、
クリスの猟銃がそうであるように、
常にそれがひっくり返る可能性を秘めていると言えます。
振った/振られた、結婚/離婚などという区切り(決着)は形式的なものであり
端的に言って幻想であると言えましょう。

しかし、この種の幻想は「存在しない」とは言えないもので、
それが「ある」と信じなければ人は生きてはいけません。
(と、ジジェクが書いておりました)
例えば冠婚葬祭のような実体としては存在しない「区切り」を設定することによって
(死などの)非日常を飼いならす機能を岡崎乾二郎は「礼楽」と呼んでいます。

この科学万能の時代になぜ礼楽が必要なのかと言えば
科学は死や失恋の痛みをなんら和らげないので
それとは別のシステムが必要とされるわけです。
もっと言えば「なぜ私は科学を信じるのか」という点において
葬式など信じないような科学主義者であっても根底に幻想を抱えています。
これは「科学は幻想である」という意味ではなくて
たとえE=mc^2が普遍的な真実だとしても、
言語的な存在である人間がそれを信じるためには(「信じる」という行為の中には)
非論理的な飛躍が必要だということです。

「失恋」という区切りは幻想なわけですが、
その幻想が時に必要なものであるとしても
それが幻想であるということは忘れてはならないと思います。
「ああ、この恋も終わったな」と思っても
そこで整理をつけてしまわずにとりあえず浮かせておく。
それがゲームセットだとは思わずにマッチポイントだということにしておく、ということです。

三井の中ではもうバスケは終わってたわけですが、
「あきらめたらそこで試合終了ですよ」
と言った安西先生は二年かけて彼を引き戻しました。
安西先生が何をしたというわけではないのですが
「終わりにしなかった」ということが重要なわけです。
僕もそうありたいものです。

いったい誰に向かって言い聞かせてるんだという感じですが
とにかく俺はそう思うことにしたのさっ!
まぁ真面目な話、何もセックスのことばかりでなく
音楽についても「すっぱり諦めたほうが」と思うことが年に何度かはあるのですが
「すっぱり」などしないで「保留」にしておくという選択もありだよなぁと。