増村保造『曽根崎心中』

劇画的と言うか紙芝居的と言うか…
「若尾時代」のリアリズムからの脱却を図っていたのでしょうか。
ずいぶんと仰々しい演技です。
梶芽衣子は元々大きな目をカッと見開いて
瞬きすらしないのでちょっと怖いです(笑)

そのような演技に対応するかのように
この映画では象徴的な演出が多用されます。
襖と障子を閉めることによって
世間から隔絶された二人だけの世界を作り出し、
それと対を成すかのように二人の間を襖で仕切ることによって別れの演出とする。
同様に引き戸がバシっと閉められることによって
徳兵衛母子の縁は切れ、今生の別れのとなる。

とはいえ、基本的なプロットは『清作の妻』と同じで
マッチョで真面目で男気のある徳兵衛(宇崎竜童)は
その男気によって身を滅ぼし、
その屈辱を受け入れることによってはじめて
お初(梶芽衣子)と真の意味で結ばれる、というお話。

しかし、この映画では徳兵衛が屈辱を受け入れるさまは
リアルな心理描写によっているのではなく
上記のような象徴形式によって表されます。
彼はお初の着物の裾に隠れ、這いつくばって店に入り
縁の下に押し込められて憎き仇、九兵次(橋本功)が
根も葉もない自分の悪口を言いふらすのに耐えるのです。

縁の下の徳兵衛は座敷から垂れ下がったお初の足をずっと撫でていて
怒りに我を忘れて縁の下から這い出ようとすれば
お初に足蹴にされておとなしく中へ入ります(笑)
まさに増村マゾヒズムの真骨頂。

結局は心中した二人が幸せなもんかって?
それは野暮というものです。
愛しい男に喉を突かれて死んだお初の
愛する女の死体を目の前に喉を掻っ切った徳兵衛の
死の瞬間の快楽たるやいかばかりであったでしょうか。
僕もそんな快楽を味わいたいものです。嘘ですが。

しかし徳兵衛は増村映画の主人公としては
最後の最後までマッチョすぎます。
増村が真に描きたかったのは実は九兵次ではなかったかと僕は思うのです。

古い友達の恋人に横恋慕した挙句
恨めしさから彼を騙し、金を奪い、心中に追い込んだ極悪人。
惚れた女お初に衆目の前で下衆呼ばわりされた屈辱、
追い討ちをかけるようにその直後に全ての悪事を暴かれ
叩きのめされてなと悪態をつく恥知らず。

彼が身にまとう汚辱に比べたら徳兵衛の屈辱など屁のようなものです。
縛り上げられ、打ち首がほぼ確定的になった状況で
二人の心中の知らせを聞き「道連れで皆死ぬがいい」と笑うこの男の狂気の底に
恥辱に塗れたマゾヒズムの境地を見出すのも間違いではないのではないでしょうか。
おお、哀れで醜い蛆虫の九兵次よ、お前が真のヒーローだ。