アニエス・ヴァルダ『幸福』

ヴァルダを劇場で観るのは初めてでしたが素晴らしい光の美しさ。
夏の強い日差しに照らされた草むらと
濃い影が出来た木陰の強いコントラスト。
それと対応するような、まだ暗くなってはいないものの
やや日が傾いた夕暮れ前の柔らかい日差し。
帰り道の車の窓から見える宵にぼうっと浮かび上がる夕日。

太陽が家族の幸福と共にあるとすれば、
他の様々な光はその幸福以外のものを表していると言うべきでしょうか。
いなくなったテレーズを探す家族の上に落ちる森の影の暗さ。
あるいは、愛人に会うために颯爽と駆けるフランソワを照らす曇り空は、
別に彼を冷たく照らしているわけではありませんが、
それが家族との幸福の光と違うものであることは明らかです。

自然光だけでなく室内光も素晴らしくて
帰宅した二人が子供たちを寝かしつけて
一つずつ部屋の明かりを消してゆき、
家の中の暗さと共に二人のプライベートな空間が形作られていく。
そして同時にその暗さはこの家族に起こる闇を暗示するものでもあります。

しかし夫の不倫の果てに妻が自殺する映画に『幸福』とは
ヴァルダさんてば何というタイトルをつけたものでしょうか。
核家族とは性関係を基本としており、
「二個の者がsame spaceをoccupyする訳には行かぬ。」ゆえに
性関係は、必然的に排除の関係をはらみます。

もし誰かを愛し、その人の愛を得るならば
それによって別の誰かが傷つく可能性が常にあるということ。
フランソワがたとえテレーズとエミリ両方を愛していたとしても、
テレーズとエミリにとってのお互いは
自分が得るべき彼の愛を奪い合う関係であることは避けられないわけです。
まぁ不倫に限った話ではないのですが。

家族の幸福とはそのような排除(犠牲)の上に成立している
という残酷な認識を得た上で、再度新たな家族の幸福に着地する。
ヴァルダの厳しさと優しさが両方表れた素晴らしいラストです。
そして、テレーズとフランソワを照らしていた夏の強い日差しとは違う
温かい秋の日差しがエミリたち家族を照らすのでした。