溝口健二『お遊さま』

これはエロいです(笑)
溝口の描く女は誰もが独特の艶を持っていますが
谷崎の原作となるとここまでエロくなるとは、いやはや。

もちろん田中絹代と堀雄二は生涯プラトニック、
田中が嫁ぐまでは乙羽信子と堀雄二も夫婦と言う名の兄妹ですから
性器的なエロスの要素は一かけらもありません。

男性と女性が口を利きはじめるかという時に、女性のほうからものを落としたりしますよね。…(略)…その時に、ハンカチーフなり扇なりは単なるきっかけではなくて、ある運動とともに象徴的な性の対象となり得る。

と、蓮實重彦が述べていましたが、
ここでいうエロスとはそのような種類のものです。

というか、もろにそういうシーンがありますね。
田中絹代が落としていった「遊」と書かれた扇子を
一人見つめて胸を焦がす堀雄二。
あるいは田中絹代が倒れるシーンの場違いなまでの傘の白さ。
あの傘は生涯結ばれることのない二人の純潔が結晶化したものなのでしょうか。

そしてなんといっても団扇。
団扇というのは触れることなく肌に風を送る道具です。
肌を交わすことの叶わぬ相手に
自らは触れることなく優しく肌を撫でる。美しいじゃありませんか。
堀雄二が田中絹代を仰ぐシーンもありますが、
田中と並んで座る堀を、少し後ろから乙羽信子がそっと仰ぐシーンが
なんといっても涙を誘います。

観ていてまず思うのは「二人ともやっちまえよ雄二!」
という感想でしょう(僕だけじゃないよね?)
しかし、決して交わることがなかった二人は果たして不幸だったのか。
いや、そもそも二人は果たして「決して交わることがなかった」のか。

二人は「象徴的な性」を心から楽しんでいたのではないのか。
疲れて道で負ぶさり、詩の詠み合いをする二人の間には
(観ていた僕がそうだったように)
性交などより何倍も卑猥な関係が交わされていたのではないのか。
自分が彼らのようになりたいなどとは全く思わないけれど
たとえ胸が張り裂けるような悲しみ中で生きようとも
これはこれでとても充実した生(性)だったのではないかと思うのです。