ヴィム・ヴェンダース『ベルリン・天使の詩』

僕はこの映画がヴェンダースの最高傑作だと思っているのですが
実はこの映画には彼の危うさも詰まっていて
その危うさが命取りにならない奇跡的なバランスの中で
これほどに美しい映画が生まれたのだと実感します。

美しい場面はいくらでもありますが、
最も泣けるのはホメロスじじいが出てくるシーンでしょう。
彼は語り部でありながら声が枯れ語ることができない。
まるで天使のごとくベルリンの歴史を見つめてきた彼は
それでも語ることをやめることができない。
そんな彼の声にならない声をカシエルがそばに寄り添って聞き続けます。
(嗚呼、思い出すだけで泣きそうです)

映画とは、老ホメロスの語りのような
今聞きとらなければ消えてしまうような声を
物理的な痕跡としてフィルムに刻み付けるためにあると言ってよいでしょう。
これが主にカシエルによって担われる天使の視線ですが、
この映画は天使の視線だけでなりたっているわけではありません。

冒頭から何度も引用される詩にあるように、
子供の視線もこの映画の重要な要素になっています。
子供の視線とは一言で言えば「世界を発見する視線」です。
未知の世界を探索したいという欲望からダミエルは人間になる。
元天使のピーター・フォークは今もそこら中をほっつき歩く。
天使から人間になるということは、
絶えず身体をさらして世界を感じ続けることなわけです。

これまでのヴェンダースの映画では、
この二つの視線は切り離せないものでした。
リュディガー・フォーグラーは子供のように世界をほっつき歩き
アリスやミニオンと同じような視線で世界を発見しますが、
彼はひたすら受動的な存在であって
まるで天使のように世界を見つめているだけだとも言えるわけです。

が、この映画ではその二つの視線は乖離しています。
バラバラになった視線がはじけてしまう前の
天使の視線と子供の視線が響き合いベルリンという街の歴史と、
そこに暮らす人々の声にならない声が渾然一体となって
この奇跡のような映画が織り上げられていえましょう。

二つの視線はこの映画の中ではどちらも欠かすことが出来ないものですが、
結局のところ「天使から人間(子供)へ」の物語であって
ホメロスでさえ最後に旅立つことからもわかるように
ヴェンダースは子供の視線のほうに舵を切るわけで、
カシエルが人間になるという(たいそう評判の悪い)
続編が作られることは必然だったと言えましょう。

つまりは前期ヴェンダースのポテンシャルの全てが結晶化した作品であると同時に
後期ヴェンダースの迷走の萌芽も含まれているという
ファンにとっては両義的な作品なのですね。
でもやっぱり、なんて言ったって美しい映画です。