黒沢清『893(ヤクザ)タクシー』

この映画の登場人物たちは皆、
キャラクターとしての役割を演じることに必死だ。
チンピラヤクザなり、親分なり、お嬢様なりといった
キャラクター類型を自己目的化したような人物で
類型化されているとは言え行動パターンは異常で、
例え頭に銃を着きつけられても
高利貸しは少しも焦ることなく守銭奴として振舞います。

人間の、人間的感情がぶつかってドラマを生むのではなく
歯車が自らを歯車たらんと欲することによって
それぞれ大きさの違う歯車が
噛みあったり噛みあわなかったりしてドラマが生まれる。
それぞれ「違う時間を生きる」キャラクター達の
「クロックの合わなさ」を基本としたドラマ展開で
黒沢版スクリューボールコメディが作られてるわけです。

この映画の最も美しいところは
それぞれのキャラクター達の目的が手形という一点に集約され、
それを奪い合うクライマックスシーンです。
ヤクザ、金貸し、お嬢様、刑事、運転手…それぞれが
違う思惑をもって手形を欲し、それを巡って運動するさまが
ため息がでるほど流麗なカメラワークと
軽快な演出によって描き出されます。

この映画が機械仕掛けのような冷たさにとどまらないのは
機械のようなキャラクター達が
生きた風景の中で動いているからでしょうか
クライマックスシーンは造成林のはずれで演じられるのですが
(そしてなぜ造成林なのかはわからないのですが)
小鳥のなく林の向こうから車がスーッと走ってくるショットや
草をなぎ倒しながら必死で走るヤクザたちの画が、
そのキャラと風景の違和感ともあいまって(笑)
非常に印象深い画面を形作っているのですね。