ミヒャエル・ハネケ『隠された記憶』

冒頭のジョルジュ宅の映像は、固定カメラであることと
圧迫感のある画面両端のビルに挟まれていることによって
作為的に切り取られた空間であるという気配を漂わせています。
実際、数分後にはこの映像が
悪意ある第三者によって撮影された監視映像であることがわかります。

息子のピエロの水泳教室のシーンでは、
ピエロたち生徒は、ターンだけの練習をしていて
5m四方くらいの箇所だけが写されます。
水泳教室なのだから25X15m位のプールだと予想されるわけで
ここでも意図的に限定された空間で起きる出来事
が映像化されているわけです。

ビデオやテレビの映像はもちろんのこと、
上で挙げたような、やたらフレームを意識させる構図、
水滴や指紋のついたガラス越しの映像、等等によって
この映画では、今観ている映像が、
映画の世界内を透明に反映した神の視点のようなものではなく、
作為的に写されたものであることを
強調するような映像が幾つも出てきます。

にも関わらず、この映画は別の側面も持っています。
通常では監視カメラの映像には走査線の処理などを施して
「ビデオっぽい映像」を作るのが普通なのですが、
ここでは、監視カメラと主人公視点の映像の間に
質的な差異がありません。
夢や回想、ひょっとして妄想?などの映像が
現在の出来事の映像と連続して挿入されたりもします。

映画内での現在の時制に属する映像に
限定的な虚構性を帯びた映像が接続され
それらの映像によって、
主人公達の現在が暴力的に犯されるわけです。
そして、そのような映像は僕たちの属する現実とも地続きであり
この映画は僕たちの生をも暴力的に犯すのですね。
僕に言わせれば、衝撃のラストなんぞよりも
そっちの方がよっぽど恐ろしいです、はい。


どうでもいい話。
ますますどんくさくなってくジュリエット・ビノシュが主演で
僕の大好きなナタリー・リシャールが端役なんて納得いかん!
リシャールがアンの役でもいいじゃないか!
と思いながら観てたんですが
ぶっとい足でオロオロ、ドタドタ歩き回るビノシュがいないと
この映画は成立しないかもな(笑)と途中で納得しました。