村上隆を擁護してみる(やや自信なし)

美術には詳しくないので(と最初に言い訳をしつつ(笑))
最近話題になってる村上隆の話↓
http://www.kaikaikiki.co.jp/news/list/murakamis_lawsuit/

それに関して東浩紀が↓を書いてたのを読んで
http://www.hirokiazuma.com/archives/000214.html
実家に帰ったときにその話を妹としました。
(というわけで、以下の話は半分以上が受け売りです)

村上はよく、自分の作品について
「そこはデザイナーが描いた部分です」という言い方をします。
彼の作品において、図像はオリジナルでもなんでもなく
それは元々アニメなどのパロディであり
しかも村上本人ではなくスタッフのデザイナーが描いている。
彼のオリジナルな部分が存在するとしたら
コンセプトの部分になるわけですね。

乱暴な整理ですが、デュシャンのコンセプトは
「アート作品なんて便器と同じだ」というもので
ウォーホルのコンセプトはそれをさらに転倒して
キャンベルスープもアート作品としての
オリジナルなオーラを持つことができる」というもの。

ウォーホルやリキテンシュタイン
コピーにオーラを宿らせるために
オーソドックスな意味での
美術家としての技術やセンスを使っていたのに対し、
村上は自分で描くことを放棄し、
マネーゲームで自分の作品の市場価値を高めることによって
作品にオーラを付与しようとする。
この辺りの戦略(コンセプト)の過激さが、東が
アンディ・ウォーホルのオタク版アップデート」
と呼ぶところかなと。

図像としてのDOB君はミッキーのパクリだけど、
「パクリ絵をオリジナルな作品として高値で売ること」が
彼の作品のコンセプトなのであり、
そのコンセプトこそが彼のオリジナルなのだ、と。

村上にとって「マーケットで売れている」ということは
商売人としてだけではなく
彼の絵が美術作品として成立するにあたっても
極めて重要な位置を占めているわけで
「自分もパクってるから他人にパクられてもOK」
とはいかないのですね。

このことは東もわかっていて

おそらく村上氏としては、デザインの借用そのものというより、自分のコンセプトに敬意を払わないままにデザインだけ借用された、そのことへの怒りのほうが大きかったのでしょう。それは分かりますが、それでもこの裁判はデザインの問題として理解されるはずです。

と言うわけです。

で、裁判がデザインの問題として理解されるのはわかるとして、
何ゆえそれがDOB君のオーラを消すことになるのか。

ほかの無数の商業主義的なキャラクターと同じ厳しい基準で検討されざるをえない。

として、図像としてもDOB君がデザインとして魅力的でなくても
作品のコンセプトが傷つくわけではないんじゃないかと思うのですね。

などと書きつつ、僕はDOB君の面白さなど
さっぱりわからないわけですが、
僕は、「作曲家や演奏家がセンスや技術で作り上げた
「音楽の彩」のようなものをコンピュータで捏造することは可能か」
というようなことをずっと考えているので
村上隆という人にはシンパシーを感じるんですよね。