デレク・ジャーマン『ザ・ガーデン』

ジャーマンとゴダールの映画は
「まったく意味がわからない」という点で共通しますが(笑)
二人は正反対の志向を持っているように思います。
というより、正反対の志向をもった二人が反対方向に歩いた結果、
地球の裏側で出会ってしまった感じでしょうか。

ゴダールの映画では、全てのものが意味を剥ぎ取られています。
顔はただの顔であり、コーヒーはただのコーヒー、
カモメの鳴き声はカモメの鳴き声です。
カモメの鳴き声を意味する記号、などではなく、
「ギャー」という空気振動そのものと言った方が正確でしょうか。
コーヒーにしたところで「コーヒー」という名詞で呼ぶよりは、
「白い陶器の中の茶色い液体の映像」と呼ぶのが正確かもしれません。

ジャーマンの映像は、全てに意味があるように思います。
宗教、性、死、暴力のイメージが繰り返されるんですが、
生々しさが全然感じられない、漫画のよう映像なのですね。
(なんてことを言うと漫画家に失礼ですけど)
美しく、神秘的な映像なのですが、
「神秘性」の記号的な表現を見ているようです。

音の使い方にもそれは表れていて、
グラスハープを使った曲がBGMでかかってるんですが、
女性達がグラスハープを演奏する映像が、
曲の途中で挿入されるのです。
観念としてあるBGMが、
物語(ストーリはないですけど)に侵入するわけで、
カモメの鳴き声がただの音の塊になる、ゴダールの映画とは
まるで逆の使用法だと言えると思います。
(非常にわかりづらい表現ですいません)

全ての映像と音に意味があるようにみえるこの映画は、
しかしながら全く意味のわからない映画でもあります。
映像や音の持つ意味作用を過剰に詰め込んだ結果、
壊れた意味の残骸のようなものしか残らなかった、
とでも言いましょうか。
その残骸を眺めるのは、中々に甘美な体験でもあります。