蓮實/ゴダール/カーペンター

蓮實重彦の『ゴダール革命』によれば、ゴダール

「正しいイメージではなく、ただのイメージに過ぎない」

という表現を使うのだそうです。
グリフィスからフォードまでのハリウッドの作家が、
「正しいイメージ」ばかりを撮ってしまったので、
自分はロッセリーニに倣い「ただのイメージ」
を撮るしかなかったのだ、と。

ゴダールの恐ろしいところは、
ただのイメージ(例えば「ただのコーヒーのイメージ」)を、
「正しいコーヒーのイメージ」であるかのように
でっちあげてしまうところにある。

蓮實は、ゴダールの映画に倣って、「女は女である」
「映画は映画である」「ゴダールゴダールである」
というような同語反復を繰り返すだけなので、
なぜ「ただのコーヒーのイメージ」が
決定的なイメージとなりうるのかは全くわからないままだ。
ゴダール同様、始末に負えないじいさんである。

僕なりの凡庸な解釈を試みましょう。
フォードと同じようには正しいイメージを撮れない、
と思ったゴダールは、
「正しいイメージとは何か、ただのイメージとどう違うのか」
という考察をしているのではないか。

正しいイメージが発生する起源を探る試みの過程で、
フォード的な意味での正しいイメージとは違った、
正しいイメージの原型のようなものが
フィルムに刻み付けられた、というのはどうでしょう。

ジョン・カーペンターは、古典ハリウッドの
正しいイメージの系譜に連なる人です。
本当なら、1981年の時点で、50年代ハリウッドのような
正しいイメージが撮れるわけないんですが、
ビルの間からヘリコプターが降りてきて
真っ黒な警官隊がザザッと走るのを撮れば
それだけで正しい映像になるだろう、
という誠に安直な思想で作られています。

フォードのようには映画を作れない、
というところから出発したゴダールとは違いますが、
それでも手前勝手に映画を作ってしまうずうずうしさ、
という点で、ゴダールとカーペンターは似ています。