スティーブン・ジェイ・グールド『マラケシュの贋化石』

毎度のことながらグールドの博覧強記っぷりには驚く。
ダーウィンやラマルクは本業だから当然だとしても、
ガリレオを原書で読み、マルクスやベーコンから自在に引用し、
縫製工場の火災についての本まで読んでいるのだから恐れ入る。

進化生物学者としてのグールドに期待して、
古生物ファンとしてこの本を読んだ場合には
少々食い足りない部分もある。
ナチュラル・ヒストリー誌のエッセイ以外にも、
新聞に掲載された記事なども含んでいて、
マグワイアのホームランにはとんと興味のない僕としては、
読んでいて?となる場面も多い。
(つまらないわけではないんだけども)

しかし、これらのエッセイは決して無意味なものではない。
グールドは最初のエッセイ集『ダーウィン以来』で、
ダーウィンは、自然淘汰についての着想を、
生物学や博物学の書物からではなく(それらも読んではいたが)
社会学統計学から得ていたことを明かし、
ダーウィンの天才は中庸にこそある、というようなことを述べている。

その考えは本書でも変わっておらず、
8章『劣等生ダーウィン』では、タイトルの通り、
ダーウィンが若い頃から取り立てて優れた才能を発揮していたわけではなく
「才知あふれる人びとは、すばやい理解力や機知に恵まれているが、私にはそれがない」
と、自らも認識していたと書いている。

その代わりにダーウィンには、雑多な情報を粘り強く検証し、
論理的な体系に組み立てる能力と意志があった。
ダーウィンを駆り立てていたものは、
種の起源はある」という信念だった。
このマスターキーがなければ、熱意を持って情報を収集したり、
それらの多方面の情報に意味を見出したりは出来なかったはずだ、
とグールドは述べている。

ちなみに、このような態度は羽生善治の将棋にも見出せる。
科学者だけでなく、棋士や芸術家にも必要な態度なのだ。
ヒュームやロックの思想がダーウィンにどのような影響を与えたのか、
モーツァルトジョー・ディマジオに関するトリビア
グールドの断続平衡説とどう繋がるかはわからないが、
一見すると無駄に思える手駒を、あえて生かしておくことが、
彼らに共通の、天才の秘密であることは間違いなさそうだ。

はてさて、僕も無駄に多くの音楽を聴き、
映画を観て、なるべくたくさん本を読むようにしているのだが、
グールドやダーウィンほどの業績を残したい、などとは言わぬまでも、
なんらかの形でそれらが生きてくれないものかしらん、と思う。
それらを統合するマスターキーが見つからないのが難なのだが(笑)