ツァイ・ミンリャン『ふたつの時、ふたりの時間』

シャオカン、シアンチー、シャオカンの母、
3人の登場人物がいて、3つの時間が流れる。
原題は『What time is it there?』だし、
なぜこの邦題になったのか?謎だ。

シャオカンは、パリへ行ったシアンチーのことを想い、
台北にいながらパリと同じ時間を生きようとし、
台北中の時計をパリにあわせて7時間進めようとする。

母は、死んだ夫のことを想い、
夫の魂を追って怪しげな儀式に没頭する。
シャオカンが狂わせた時計を見て「父さんがやった」
と思い込んでしまったのも、きっかけの一つになっている点が重要だ。

それぞれ、不在の相手に対する不毛な愛に生きる母と息子は、
奇妙にシンクロしながらも、別の時間を生きることになる。
シャオカンはそのことに気付いてもいるが、
(母のことも、シアンチーのことも)愛してはいても
同じ時間を共有できないことを知って、それに耐えている。
あるいはこれは、台湾という国を表象しているのかもしれない。

シアンチーは、パリで一人、
フランスの時間にシンクロできないでいる。
ラストの観覧車の回り方からして、
彼女は地球上の時間に生きていないかのようだ。

彼女は、耐え難い孤独を感じているくせに、
手を差し伸べてくれる人に対して心を開かない。
彼女が他者とコミュニケーションするシーンは、
どれも独特の緊張感を持ち(主に相手がどぎまぎしている)
その居心地の悪さが、おかしくも美しい。


どうでもいい話。
シャオカンがパリを舞台にした映画のビデオを買い求め、店主が
「『二十四時間の情事』は?『大人は判ってくれない』もあるよ」
と応じるのだが、『二十四時間の情事』はパリが舞台ではないよなぁ。
結局シャオカンは『大人は判ってくれない』を買うので、
ストーリー的にはどうでもいいエピソードなのだが。

ミスでこんなセリフになったとも思えないし、意図があるのだろうか。
ギャグだとしたら分かりづらいし、第一まったく面白くない(笑)
シャオカンが映画館で出会うメガネの男のエピソードも、
全く意味がわからないし、ギャグとしても面白くない(笑)
いったいなんなんだ?謎だ。