YMOは欧州的価値観へと脱却できるか
古くなったテクノロジーが感性だ、
と、確か柄谷行人が言っていたと思う。
ピアノとはベートーベンの時代の最先端技術だし、
今ではエレキギターは生楽器に分類されている。
下手をしたらムーグ・シンセサイザーも生楽器扱いじゃないか?
コンピュータ・ミュージックもこの線で考えることは可能だ。
だが、段階論ではちょっと捉えきれないくらいの
大きな地殻変動をコンピュータがもたらした部分はあると思う。
↓宮台真司のブログにアップされていた文章より
■近代社会の古典的なモデルは、第二次産業(製造業)が中心だった近代過渡期(モダン)のものだ。すなわち、相対的に非流動的な〈生活世界〉の外側に、流動的な〈システム〉が拡がることで、〈生活世界〉を生きる我々の福利や便益が増大する、というものである。
■しかし、産業構成上も労働人口上も、第二次産業よりも第三次産業(情報&サービス産業)が中心となる近代成熟期(ポストモダン)になると、今度は〈生活世界〉の内実をなしていた自立的相互扶助そのものが、〈システム〉へと置き換えられるようになり始める。
…(略)…
だが先述した近代成熟期は、〈システム〉全域化による〈生活世界〉空洞化を招き、価値の地面たる「我々」を断裂させる。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=322
テクノロジーの発展による便益の増大を、
ピアノやエレキギターによる新たな音楽的価値の創造、
という風に読むことが可能で、
コンピュータ・ミュージックは、
そのような創造行為の内実を、システムに置き換えた
という風に言えるのではなかろうか。
宮台は、上記の空洞化に対して、
欧州的処方箋↓
スローフード運動に象徴される通り「役割&マニュアル」な便益追求による人間の入替可能化に抗い、〈生活世界〉の空洞化を防遏しようとする。抽象的には〈システム〉の過剰拡大を〈システム〉によって防遏する「再帰的近代化」が企図される。
米国的処方箋↓
〈生活世界〉を護持する代わりに、アーキテクチュラルな権力を持ち出す。冷暖房の温度、照明の明るさ、BGMの音量、椅子の堅さ、家具や調度のアメニティによって、主観的自由感を損なわずに、客の回転率を制御する技術によって象徴される。
の二つをあげる。
突然だが、YMOは上の米国的な戦略を
どこまで推し進めることが可能か、
というコンセプトのバンドだった。
幸宏さんはきっちりフォローしてないので置いといて(笑)
坂本龍一と細野晴臣は、80年代半ば以降、
生産的な仕事をしなくなる(←思いっきり私見だが)
ミュージック・シーケンサーとサンプラーが登場したあとだ。
細野の神秘主義への傾倒はそれよりも前だが、
コンピュータ・ミュージックの前面化と無関係ではない。
おそらく米国的戦略とコンピュータの可能性に限界を感じたのだろう。
坂本は思想的な迷走を続けた後、
90年代半ばに環境問題にたどり着く。
神秘主義は、米国内での反近代の典型、
ロハスは欧州での反米の典型だが、
重要なのは、二人ともコンピュータを捨てていないことだ。
『〈システム〉の過剰拡大を〈システム〉によって防遏する』
のが目的だと考えていいだろう思う。
正直、二人とも成功してるとは思えないけど
がんばって欲しいものである。