ナンニ・モレッティ「息子の部屋」

ちょっと昔のテレビドラマのような感情表現が満載で、
息子を信じると言いつつ、疑いを捨てられない主人公(モレッティ)は、
息子の部屋の引き出しを開けようとして、とっさに閉めたりするし、
病院の待合室で泣くシーンでは、
飛び込んできたモレッティと母子が3人で抱き合うわ、
よたよた力なく歩いて崩れるように抱きつくわで、
これは冗談なんだか本気なんだか、という感じなのだ。

だが、おそらくこれはフェイクだ。
息子が死んだ後、死の直前の映像を使いまわして、
もしあの時、診察を断って息子と走りに行っていたら
息子は死なずにすんだのではないか?
という想像上のエピソードが挿入される。

通常、映画の画面上の映像というのは
夢や幻覚の話でない限り、現実に起こった映像として扱われる。
この映画のようなヒューマンドラマでは
想像上の映像など禁じ手に近いと思うのだが、
モレッティは平気で使っている。

つまりは全てが戦略的につくられたものなのだ。
過剰な感情表現も、想像上のエピソードも
物語が終わった後で、どのようにして物語を組み立てるか。
現代においてヒューマンドラマはいかにして可能か。
という課題に取り組んでいるのだろうと思われる。

その意味で、表面上の違いにもかかわらず
ダンサー・イン・ザ・ダーク」の
ラース・フォン・トリアーと近い位置に居る、
と言えるかもしれない。

余談。
ブライアン・イーノの「By this river」が使われているのだが、
メジャーとマイナーの間をゆらゆら揺れながら
切ないメロディがポツポツと歌われるこの曲が、
この映画の感情の揺れとばっちりシンクロしていて、
なにやら聴きながらジーンときてしまって、
CDを引っ張り出してきて久々に聴き入ってしまった。