ホウ・シャオシェン「珈琲時光」

ジャ・ジャンクーホウ・シャオシェン
わりと似たような映画の撮り方をするけれど
「青の稲妻」の主人公達が、受動的な存在として設定されている
という意味で、積極的に受動的であるのに対し、
この映画における一青窈は、消極的に受動的である。
彼女は快活な性格が前面ににじみ出ているタイプではないけれど
よく動き回るし、積極的に人に働きかけたりもする。

彼女は受動的な性格ではないけれど
世界に対してはどうしようもなく受動的であらざるを得ない存在
という風に言えるかもしれない。

冒頭のシーンでは、洗濯物を干しながら電話をし、
大家の訪問に応対をしている。
何気ないシーンだが、彼女が外部から侵入してくる異物を
そのまま受け入れながら生きる存在であることが示されている。
(ところで、その種の受動性の隠喩として
妊娠を使うのは個人的にはどうかと思う)

彼女は電車やバスであちこちに移動するのだが、
トンネルに入るときや夕暮れの光が顔に当たる時に
めまぐるしくその表情を変える。
顔の表情ではなくて、光の加減によって
別のもののようになる、という意味だが。

ところで、この映画においては
電車も一青窈と同じく、光や動きによって
めまぐるしく表情を変える存在である。
一青窈が乗る電車から、浅野忠信がチラリと見えるシーンは
二人のすれ違いの表現だというよりは
二台の電車が追い越したり追い越されたりをする中で
互いの距離や光の反射によって
様々な表情をみせるところを捉えたシーンだと言える。

世界をその表面に映し出す、という意味で
一青窈と電車はスクリーンのようだ。
つまりはとても映画的な存在だということ。