石川忠司「現代小説のレッスン」

石川が藤沢周平の「高札場」という小説(僕は読んでませんが)
について解説している。あらすじとしては

主人公の清佐衛門が、源太夫という武士の自殺について捜査し、
彼が友世という恋人を捨てて別の女と結婚し
友世を不幸にしたのを悔いて自殺した。
と、結論付けたのだが、後でわかったのは
実は友世は源太夫と別れたあとに出会った夫と
仲良くやっていて、未練などなかった。
というオチでした…というお話。

それに関しての石川の分析、

『読者はいったん清佐衛門の推理を受け入れ、かりそめでも源太夫の内面世界――オレは友世を裏切り不幸にしてしまった罪深い人間だ――に身を置くからこそ、のちの意外な真相にハッと虚を衝かれるのであって、つまり「高札場」において「間違」った推理は真相に含まれる構造になっている、まず、「間違い」が存在してこそ真相がまさに「真相」として輝きを放ち得る構造になっているわけだ。』

はてさて、橋本治も似たようなことことを言っている

『「ちゃんと作る」はまた、「失敗の可能性」を不可避的に浮上させて、「試行錯誤」を当然とさせます。「ためらい」と「挫折」があって、そのいたるところに口を開けた「失敗への枝道」を回避しながら、「出来た」の待つゴールへ至らなければなりません。』

話は飛びますが、
僕はブライアン・イーノが好きで、
アンビエント・シリーズも好きなのだが
他のミュージシャンの作るアンビエントには
あまり興味をもてない(面白いのもあるかもしれないけど)

彼のアンビエント・シリーズの面白さは
心地よい環境音楽の浮遊感などにはなく、
ロキシーミュージックから、
70年代のわけのわからないセッションアルバム
(僕はこれも好きだけど)
を経てたどり着いた彼の「試行錯誤」のようなものが
音の表面にべっとりとまとわりついている点にある。

アンビエント・シリーズに
ロキシーミュージック時代の影響がのこっている、
とかいう話ではなく、
彼が延々と続けた思考が、石川風にいうならば
思考が音に含まれる構造になっていると言える。

『源太夫はナルシスティックな勘違いで腹を切ったのだと、初めから客観的に分かってしまっていたらどうなるのか。多分、滑稽な男の早とちりをただ笑う意地の悪い作品が出来上がっていただろう。』

イーノが延々繰り返した思考を捨象して
アンビエントの音、という結論だけを持ってきた作品は
とうていイーノの音楽がもつような輝きを持ち得ないのだ。